たいしょう人権展の講演会に行ってきたよ☆

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たいしょう人権展のポスター(関係者のサイン入り)

12月4日(水)に大正区民センターであった高橋俊二さんの講演会に行ってきました🚲

高橋俊二さんはブレイクダンサーでMOTAL COMBATというチームで活動されていた有名な方で、現在は日本アダプテットブレイキン協会で様々な人達にダンスを広める活動をしている人です😆プロダンサーとして舞台にも出ています!

細かく書くと説明が長くなるので、活動内容が気になる方はこちらへ👇🏻

日本アダプテッドブレイキン協会
日本アダプテッドブレイキン協会(Japan Adapted Breakin Association) (略称:JABA)

今回はその多種多様な人たちとダンスを通して関わった経験から人権を考えるというテーマでお話してくださいました😊

私のメモの多さ…笑

公演聞いたことと、頭の中を整理したこと、自分の経験談を合わせて、いろいろ考えたことを書くよー🥭

パラスポーツとブレイキンの違い

パラスポーツのルールを考えてみてほしい。

障害の程度や種類によって配慮されることが違う。

これは公平に競い合うことが正しいこととされており、それぞれに必要な配慮をがされている。

例えば、2024年のパラリンピックでは以下のように決められている。(HPより引用抜粋)

パラリンピックのクラス分けは、各競技における全ての選手が公平に競い合えることを意図して設けられている。選手は、競技に出場する前にクラス分けのプロセスを経て、適正な障がいの種類と程度に応じスポーツクラスが割り当てられる。クラス分けは、公認の資格をもった医師や理学療法士、コーチなどから構成される「クラス分け委員会」によって行われ、各スポーツに必要とされる筋力や動作、関節の可動域などをテストし評価される。

詳しくはこちら👇🏻

パラリンピック クラス分け - パリ2024
パラリンピックのクラス分けは、運動機能に関する分類システムであり、同じカテゴリーで競技する全ての選手が同等の能力を発揮できるよう工夫されている。

だが、日本アダプデッドブレイキン協会の主催するダンスバトルでは、全員が同じ条件で戦うことになる。

※聴覚障がい者への手話通訳やカウントのライト、拍に合わせての手拍子などはある。

だが、それ以外はクラス分けもなければ、審査条件も同じ。どんな特性を持った人が対戦相手になるか分からない。

ダンスバトルで同じ環境でたたかって評価されることは不公平である。

身体障害者と脳機能の障害者が対戦することもあるし、重度の障害者と軽度の障害者が対戦することもある。

それって…?勝ち負けで考えると?

・障害の程度が軽い方が有利ではないのか?

・身体障害者の方が考える力がある分、脳機能の障害者よりも有利ではないのか?

・脳機能の障害者の方が身体が健康だから有利なのではないか?

など、いろんな疑問が生まれると思う。

不公平さが生み出す平等

高橋俊二さんは、不公平さがドラマを生んで、面白い空間が出来上がるということを話してくださった。

例えば、自分の足りないところを補おうと工夫してダンスするとオリジナルの動きが出来上がる。

それは、他の人にはできない動きで、真似出来ないものになる。

また、バトルの相方と足りないところを補い合ったり、対戦相手との面白い展開になったりする。

確かに、不公平さは勝ち負けに左右する。途中から、あの人には勝てない…と思う瞬間も出てくると思う。

土壇場でミラクルが起きて、結果がひっくり返って勝てることもある。

ダンスに正解はなくて、表現したことで誰かの心を動かすことができれば、結果は変わる。

それぞれが不公平な条件でその瞬間にいた人で作り上げるその瞬間に平等さが生まれることにやっと気づけた。

それは、私も今まで考えたことがなくて面白い着眼点だと感じた。

実際に私もイベントに何度か参加しているが、

いつも感じる現場の温かい雰囲気と何が起こるか分からないあのドキドキ感が、言語化されて自分の中で理解できた💡‬

これを踏まえて社会に当てはめてみると…?

社会では様々な人がいるが、圧倒的に健常者の方が多い。社会は大多数の人に合わせて作られている。

平等に作られていて不公平である。

なので、平均に満たない人は生きにくいと感じる。

脚に障害があれば、車椅子や杖がないと移動が困難、

IQが平均より低ければ、理解力がないと言われることもある。

耳が聞こえなければ、マスクをしている人との会話が困難だったり、

視力が低いとメガネやコンタクトレンズがないと見えない、

体格が小さければ、合う服や靴がない、

など大きなものから小さなものまでたくさんある。

通常学級の学校生活や一般雇用の会社でも同じ環境で過ごすことになる。

平均より高い人が評価されて、平均に満たない人は評価されない。

いつも結果が伴うものは、相対評価。誰かと誰かの比較である。

競争の社会ではそうなるのは当然なのかもしれない。

平均に満たないということ

周りの環境で刷り込まれた「劣等感」から「障害」を良くないものだと考える人が多い。

そのことから、周りに言いづらくなる人もいる。

少数の人の悩みだからこそ相談できない。周りにいないから。

配慮がない平等により不公平になる。だから結果が出ずに、無能扱いされて、悩む。

障害というのは周りの環境が作り出しているもので、平均に満たない人が生きづらくなるようになっている。

社会では大っぴらに障害者差別をする人はあまりいない。

しかし、なぜ生きづらい人がこんなにもいるのか?

差別を大っぴらにしない人が多いのに生きづらい理由は

競争社会で生きてきたからなのかな?と私は思う。

受験も学校生活も就職も出世も競争だ

人生の全てにおいて順位がつけられる。

優劣がつく。数字で見える。結果で見える。

上のレベルを目指すために努力する。

満たない人は下に見てる人の多さに気づく。

満たない人は努力不足だとか、

障害のある人には、配慮してあげないといけない。という無意識に下に見てる感じ。

健常者の多い世界ではこれが当たり前だったりする。社会に求められる優秀な人が良い。みたいな雰囲気。

社会に求められる人物像でなくても個性を活かして誰かの心を動かす、誰かの役に立つこともたくさんあるのではないか…?

健常者の多い環境では気づかなかった視点かもしれない。

今回の公演は最先端過ぎた!笑

気づかなかった視点に気づいたから嬉しかったが、

同じように周りで聞いていた人達は「難しい話やなあ〜」と言っていた。

おそらく…

①大多数の人は、バトルなのになぜ公平にしないのか?結果を出すためには配慮が必要で、それが当たり前だと思っている。クラス分けしないことで起こるストーリーの面白さというのが現場に居ない人には理解できない。

②身体障害の人ができる動きを健常者ができない。自身がダンスをやったことがない上に健常者だと想像ができない。

③差別はやってはいけないことと知ってるものの、障害者との関わりが少なくて、いざ関わった時に無意識に下に見てることに気づいてない。

こんな感じではないだろうか。(筆者の憶測です)

何かもっとシンプルでいい気もする

難しい話と思えるが、意外とそんなことない。

障害があってもなくても、自分の良いところと苦手なところは

誰にだってあるし、それを助け合ったり認めあったりできる。

助け合って感謝の気持ちを持てる。

良いところを認めてお互いをリスペクトする。

身体的な表現の幅も人間関係も広がる、可能性を見よう!楽しもう!って話しでいいと思う。

健常者が多い環境におったら難しいのかもしんないけどね😅

これが現実社会でいつか普通にならないかなあ

学校や職場で相対評価されるのは多分変わらない。学校でも道徳の授業を義務教育中ずっとやって欲しい。人の良さに気づく機会が少なすぎる。

もっと多くの事例を見たり聞いたり、体験する機会が必要。理想論だけど。

仕事での理想は、お互いが得意なことを当てはめて仕事が進んでいくことが良いと思うが

現実問題、障害者雇用しても

「面倒を見てる人の気持ちになってほしい」「仕事が増えた」という健常者の叫びもある。

それは、得意な仕事や出来そうな仕事を会社側が理解できないまま、雇っているからだ。

仕事に人を当てはめるのではなく、当事者の特性を仕事にすること。

ダンスで言えば、決まったダンスを教えるのではなく、障害特性に合った身体表現をすること。

そうしていけば、一緒に社会を回す、現場で面白いことが起きる、楽しく生きていけるのではないかなー?

と思っている。目の前のその人を大事に☆

最後にYouTubeリンクを貼るので

イベントの様子を見たい方はとんでください!

バトルや舞台、学校の授業、講演会など見れます。https://youtube.com/@yozigenz1184?si=GOrx1qpsJKC-L03z

今回は不公平さが生む平等の話で終わったけど、

インクルーシブについて考えたこともまた書こうかなー!

考えごとが趣味なので、まとまらなーーーーい🤔

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