先日、仕事でASD傾向のある親子とすれ違いが起きたのだけど、そのことから考えたことをまとめたい。
それはASD傾向のある人がみんなこうだと決めつけているわけでもなく、こういったこともあるよ。という話だと思って読んで欲しい。
突然玄関先で言われた「説明がない」
先日、療育の終わりに玄関先で、ある保護者の方から突然、不満のような言葉を投げかけられました。
「やっている内容が難しい」
「説明がない、突然始まるから分からない」
行っていたプログラムはリトミックとピアノの要素を取り入れた活動。
・細かくルールを説明する
・正解・不正解をはっきりさせる
というものではなく、音や雰囲気を感じて、自由に表現することを目的とした時間でした。
そのことを伝えると、返ってきたのは
「空気を読んでやるということですか?」
という言葉。
私は決して「空気を読むこと」を求めていたわけではありません。
その子なりに、音を感じて、動いて、楽しむ――その時間を大切にしたかっただけ。
同時に思ったのが、自閉症傾向にあると、抽象的で曖昧なことは理解しづらいという特性があること。具体的なことなら理解できるので、言葉が必要だったのかもしれないと。
責任者が不在だったので、できる限りの説明と対応をしたけど、納得のいかない表情をされて帰っていきました。
それ以前の対応
それまで、この保護者の方は毎回のように見学をされていて、見学されていない時は動画や写真を送り、不安にならないようフィードバックしていた。
活動のたびに、その日の様子や、頑張ったところなども私なりにお伝えしていた。
それでも、どこかで噛み合わない感覚があって、こちらの言葉が、うまく届いていないような空気。
少しずつ、見えないズレが広がっていっていたのだと思います。
そして退所手続きに…
数日後、電話がかかってきて「次の療育はもう行きません。退所します。」と。
その方は手続きの際、責任者にこう話していました。
「私(保護者)自身が音が苦手で…」
それを聞いた責任者は、
「そのようなお話は、これまで伺っておりませんでしたので…」
と落ち着いて返し、さらにこう続ける。
「お母さん自身が音が苦手でしたら、毎回、見学に入らなくても大丈夫なんですよ。母子分離の観点から、入られないご家庭の方が多いんです。」
発達障害傾向のある人は苦手な音があることもあるので、それに対しての配慮の言葉であって、
もちろん「子どもの様子を毎回見学するな」という意味ではない。
私は、そのやりとりを聞きながら気づいた。
私に話したことは、レッスンの内容の話
責任者に話してることは保護者自身が音が苦手だからという理由で辞める
話が二転三転してるということに。
「理由は、その場その場で変わっていくのかもしれない」
「でも、根っこにあるのは “合わなかった” という感覚なのかもしれない」
シャッターを降ろされた感覚
私は「もう関わりたくない」と言われたように感じて、ショックだった。
ちゃんと関わってきたつもりだった。
伝えてきたつもりだった。
できることはやっていたはずだったのに合わないってこともある。そういう経験だったのかも。
「理解したい人」と「向き合いたくない人」
できるだけ相手の立場に立とうとするし
言葉の裏や、気持ちも考えようとする。
でも今回感じたのは
理解しようとしている人
向き合いたくない人
この二人が話しているとき、
ものすごい温度差が生まれてしまうということ。
私がどれだけ歩み寄ろうとしても相手がシャッターを下ろしていたら、そこから先には進めない。進んではいけない。相手の特性だから。「入ってこないで」と言われてるのに、寄り添えない。
それを、すごく強く思い知らされた出来事だった。
どうすればよかったのか?
正直、完璧な答えはまだ分からない。
でも、思うのはみんなが同じ考えではない。
一人一人違う人の集まりが社会だから。合う合わないは出てくるし、理解できること、理解できないことがあって当然。
**「全部を受け止めすぎなくてよかったんだ」**ということ。
人の言葉は
「人の中の世界」での正解であって、
私の価値を決めるものではない。
そうやって、少し気持ちを切り離せるようになった。
相手は相手の問題。私の仕事は私の仕事。
私がするのは求められている支援であって、相手の問題を抱えることではない。相手が求めてないから退所した。それで良かったんだ。全員に寄り添わなくても大丈夫。
誰が正解で誰が間違ってるとかもない。
ASD傾向のある人とのコミュニケーションの難しさのまとめ
今回の出来事を通して強く感じたのは、
同じ場所にいて、同じ時間を過ごしていても、見ている世界はこんなにも違うことがあるんだということ。
言葉の受け取り方
暗黙の前提
「察する」「感じる」という感覚の有無
それらが噛み合わないと、どれだけ丁寧に関わっていても、「不満」や「不信感」に変わってしまうのかもしれません。
私の「伝えている」つもりは、相手にとっては「意味が分からない」だった。
そういう私も同じASDなんだけどさ、
人とのコミュニケーションに自信が持てないことはあるけど、自分の世界と人の世界を切り離してるタイプなもんで、
自分の世界が100%正しいとは思わないから、相手の気持ちも知りたいんだよね。
全部がうまくいくわけがない
もちろん、療育の質を上げるためにアップデートは自分の中でしているし、「次はこうしてみよう」と実践しながら改善することもあるんだけど、
こちらに、悪気がなくても、相手にとって不快に感じる人もいるんよね。
でも、「伝わったとき」の喜びも知ってるし、仕事は好き。
この経験も「合わんかった」で終わりやなくて、こういう傾向の人がいるってこと、
うまくいかないことも、それでいいんやな。思えること。それで社会は回ってるから別にいいんや!と思えたこと。
退所した人も、どこかで自分に合う支援を他の施設で受けてるからいいと思うの。
合うところで輝いて、社会で生きていけばそれで良いじゃない。
みんな見てる世界が違う。
意見も考えも違って当たり前。
それを忘れたくなくて書いた!終わり!
